【大阪府委託】リレーエッセイ 令和7(2025)年度 第4回 ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会 山城清重さん
国や都道府県がかつて「無らい県運動」としてハンセン病患者の隔離収容を徹底的に推し進めたことで、強い感染力を持つ恐ろしい病気だという偏見や差別が社会に広まり、今もハンセン病回復者やその家族を苦しめています。
今回は、その中で生き抜いてこられた山城さんにお話をお聞きしました。
…令和7(2025)年度 第4回…
ハンセン病回復者として、今思うこと

山城清重さん
ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会
ある日突然、ひとりぼっちで隔離され
私は1942年(昭和17年)、島根県の山奥で11人きょうだいの七男として生まれました。とても貧しい家でした。
小学4年生の秋のことです。大火傷を負ったことがきっかけで感覚が麻痺しているのがわかりました。この時にハンセン病だとわかったのでしょうか。しばらくして、父親に「旅行に行く」と連れ出された先が、ハンセン病療養施設である岡山県の長島愛生園でした。養子に出たと聞いていた兄がそこにいたのは驚きました。ハンセン病のことは何も知りませんでしたが、先に入所した人や兄から少しずつ教えられました。
ハンセン病という病気であること、いったん療養所に入ったら一生出られないこと、人に忌み嫌われている病気だから一家心中する人もたくさんいることーー。
二度と親きょうだいや友だちに会えないと思うと悲しく情けなく、何日も食事がのどを通りませんでした。園内には「自殺の名所」と言われる場所があると聞き、そこで死んでやろうと思ったこともあります。
名前を変えずに家族の迎えを待つ
園内には小中学校があり、入所者が先生になって勉強を教えてくれました。畑仕事もして、先輩の後をついて野菜をつくったりしました。
園内の中学校を卒業後、入所者自治会文化部で庶務の仕事を手伝うことになりました。書類を運んだり園内放送をしたりして、わずかながら給与金が出ました。
入所すると、まず「園名」を使うことを勧められます。ハンセン病にかかって療養所にいることがどう漏れるかわからない。家族に迷惑をかけないために療養所だけで通用する名前を使ったらどうかというわけです。しかし、親父やきょうだいが私を探しに来た時、まったく知らない名前を使っていたら私を見つけることができないでしょう。それは絶対に困ると思って、園名は使わずにきました。
一度入所したら二度と外には出られないと教えられましたが、社会復帰する人もいることがわかってきました。家族が迎えに来るのを期待しながら療養所で暮らしていました。けれど骨になっても迎えに来ないという現実を知るにつれて、このまま療養所で死ぬまで過ごすのは絶対に嫌だと考えるようになりました。私は絶対に社会復帰しようと思いました。園では自殺する人が少なくないとわかってきたからです。自殺とは誰も言いません。でも昨日まで元気だった人が突然亡くなることが何度もありました。お骨になっても家族は引き取らないのです。
ごくたまに家族が迎えにくる人もいましたが、めったにありません。私の親父やきょうだいも来ませんでした。私は親きょうだいのことを考えないようにしながら、療養所で一生を終えるのは絶対に嫌だと思いました。
社会で実感した差別と友情
19歳で社会復帰できたのは、先に社会復帰して京都で暮らしていた先輩が呼んでくれたからです。人付き合いが苦手でしたが、パチンコ店に就職しました。私には顔に後遺症があります。ハンセン病のことがバレないかとヒヤヒヤし、履歴書には島根の学校の名前を書きました。
何回も「バンザイ」と叫んだほどうれしかった社会復帰ですが、人と話すことは警戒しました。用事以外は挨拶だけ、余計なことはしゃべらない。病院は50年間、受診したことがありませんでした。具合が悪くなったら、薬局で買った薬を飲みました。
そんな中にも、友だちづきあいができる人ができました。客から「お前、なんで顔がゆがんでるねん」と露骨に言われた時、その友だちが「障がいがあったらあかんのか!」と怒ってくれたり、何かと誘い出してくれたりしました。兄や妹は私の社会復帰を知っていたようですが、会う機会はなかなかありませんでした。妹から結婚にあたって私のハンセン病が問題になったと聞き、「外では会わない」とはっきり言われました。
人との関わりを壊す差別と闘いながら
2001年にハンセン病国賠訴訟勝訴、2019年にはハンセン病家族訴訟にも「家族が受けた人生被害の責任は国にある」という判決が出ました。妹とは結婚の知らせがあったきり、手紙も来なくなりました。親父と会えたのは危篤になってからで、母が亡くなった時の知らせはありませんでした。療養所で再会した兄は、知らぬうちに14歳で亡くなっていたことをずっと後で知りました。社会はきれいごとを言いますが、これが差別の実態です。国が責任を認めても差別がなくなるわけではありません。
家族訴訟の裁判では私も傍聴に行ったり、集会で多くの家族の証言を聞いたりしました。療養所に面会にも来てくれなかった家族を恨んだこともありましたが、家族も苦労したのだと今はわかります。
大阪にはハンセン病回復者支援センターがあり、今は大阪に住んで医療やリハビリも安心して受けられています。大阪に限らず、全国どこでも病歴を明かしても安心して医療や介護が受けられるようであってほしい。療養所では言いたいことを言い合えた間柄があっても、社会復帰すれば環境はそれぞれ違います。何気ない軽口に敏感になったり、交流を避けたりする人もいました。回復者が孤立していないかと気にかかります。
支援センターを通じて出会った仲間の中には自ら名乗ってマスコミや講演に出る人もいます。その姿を見て、私も取材を受けたり、研修で話したりするようになりました。
2019年(令和元年)、故郷である島根に57年ぶりに帰りました。実家を継いだ兄や兄の妻、甥とも会いました。ほとんど記憶に残っていませんでしたが、同級生たちにも再会できました。やっぱり人と関わるのはとても楽しいものです。人が人として生きるうえで、大切な人間関係を奪う差別は許せません。
コロナ禍の時、病気で人を差別する風潮は変わっていないと感じました。人権(問題)や差別はどんなところでも起こりうるので、同じ人間に対して行政や社会などの周りの人たちができることをすることが大切だと思います。
これからの人生を楽しみながら、自分の経験を語ることで差別と闘っていくつもりです。
【令和8(2025)年2月掲載】
